昭和53年01月22日 朝の御理解
御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。 学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」
教祖様が百年も前にご自分の、まあ今の言葉で云うと自叙伝というのでしょうかね。金光大神覚えがそれです。然も何というでしようかね豊かな詩情というか、もう本当に歌心がおありになった様な感じの、言うなら名文を以て綴っておられるですね。御自分の自叙伝ですねを書かれる位ですから、御自分が物覚えてこの方段々おかげ受けて来られたことをずうっと書いておられる。ですからとても無学であったとは思われない。けれども無学同様の云わば受けられ方、信心の在り方であられましたでしょうね。
少しばかりのいうならば学問とか知識とか、そりや少しことはいらん沢山の学問をしておってもです。その学が身を食うと言った事であっては、折角の信心も台なしですから私共はね。信心のお話を聞いたり信心させて頂く事はね。やはり自分の持っておる知識とか観念をです、かなぐり捨ててかからねばいけない事がわかりますね。でないとねそのおかげがどうもその少しばかり学問をしとくとやっぱり学問が邪魔になるです。
夕べも十二時一寸過ぎに出て参りましたら、お玄関の方ががやがやしとりますから、行ってみたら桜井先生たちが親子三人で来とんなさいますもん。こげん遅くと云うたらある人が自動車で送ってくれるというたからと言ってまあ見えたんです。それでそこの自動販売機で熱いしるこを買うて来とんなさいますもん、買うて来とるというかそれで私にも一本下さったから。ならお茶でも頂きましょうと云うてそしたら。控えの方で先生方が二三人で信心話をしよりましたから一緒に。
昨日は直方地区の共励会でしたから。皆さん丁度帰られるまでお話しとりました。その中でです、桜井先生が或る方の熱心に此処に参ってくる。この方は此処では知識階級の方ですから、博士号まで持った方ですから、その方の話が出よりましたから。こんどあちらのお嬢さんが大学受験されるのに。今年とてもあげな学力からいうたら、とても通りはせんと思うからあの是非お宅の方の部屋を今から予約しときますと言うね話を聞きましてから。まあ本当その人らしいと思うてから、学が邪魔をするわけです。
もう自分で娘の学力がちゃんと分かるわけです。いやこれじゃどうも一年浪人せんならん、だから手回しよう桜井先生のところに下宿をお願いしてあると言うわけです。まあその実に何というですかね行き届いておられるわけですね。考え方があの光昭の嫁がお産の時なんか大変難かしい事が判ったわけです。まあお医者さんですからその方はそしたらね。もうちゃんと伊万里の方にこんどは難かしいからこんどは、どうなるか判らんというちやるです。もうこれにも私は驚きましたです。
医者がね例えば難かしいかもしれんと、例えて言うとその時にいうたんでは自分の手落ちの様になってはいかんから。前々からちゃっとそういう風にこんな話ですから、だからあっちはお母さんがえらい心配してから。けども私は例の通りですからまあ言うならば問題にもしませんでしたけれども。そういうふうです。もう頭がさばけておるというか、学問があるが故にです、これは身を食うておる証拠です。それでもまあ私がそれを聞かせて貰った以上は、やはりそれはそれなりにまた、そういう性分の人ですから。
おかげを受けなければならんと、改めてお願いをさせて頂いたですけど、その自分の学問が少しばかり学問をしたのですからね、それがお役に立たねばなりませんのですけど。こと信心に関してですね言うならば観念を、捨てきらないと神様と一体になっての、所謂昨日から頂く天衣無縫のおかげにはもう絶対つながらないです。ですから自分の考えが先に起こる様な時には、それを打ち払い、、打ち払いそして言うなら白紙の状態になって、お縋りもせんならん教えも頂かんならんです。
教祖様が決して無学であったとは思われない。その当時としてはやはり学識を持っておられた。それでもやはり人が助かったというのは、自分の勉強とか、自分の考えと言うものを先にお使いになっていない。だから人が助かるというか、あぁいう天衣無縫のおかげというか、天地金の神様の御用を、愈々篤うしておいでられたんだと思うです。私がおかげ頂いとるのもやっぱりそうだ、私もやっぱり無学なんですからという方が、近いぐらいの事ですからね。
けど事神様から頂く事になるともう自分の考えなんか全部捨ててしまいます。そして任せでなけりや、本なまかせにはなりません。でなかったら心配になります。もうおかげ頂かなかった先のことまで心配しておる。自分の持っておる患者が難かしいごとある、そこからもう前もって通知をすると言う様に、親切といえば親切ですけれども、こういう生き方では神様のお徳を十分受けることは出来ません。所謂観念が邪魔をする学識が邪魔をするだから勉強するな、無学がよいぞと言う事では決してない。
こと信心にかけては自分の持っておる知識なんかは、言わばもうかなぐり捨てて神様に向かうて行かねばならんと言う事である。ならここでは真がなからねばと云うておられます。そのまことがね出て来んのです。昨日まあいろいろ直方から帰られる間先生方とお話をしたのですけれど、もう人間である以上幸福になりたいという願いをもたない者は一人も居るまいと思う。
もう皆が幸福になりたいと思うとる、けれどもその人間の果たして幸福とは、どう言う事なのかと言う事を究明するものは少ない。またこういう生き方になれば必ず人間が幸福になると、言うなら説いたり絶対信を以て教える人はない。あるとしてももう大変な言うならば、茨の道というか難かしい道を辿らなければ、そういう助かりは得られない事になっている。外の宗教から見るとそう言う事になる。ところが金光大神様はそういう難かしい、言うなら信心をなさらずにです。
例えばお上から神様を拝んではならん、と言われたらもうサッと片付けてしまっておられる。あんまりスッキリしとられるから、村のいうなら部落長さんですか内々で拝んだら良いですよ、役所からああ言うて来とるけども、いえ内々では拝まん本当にお許しが出なければ拝まん。というて言う様な行き方、そしてお許しを得られたらまた拝んどられる。その拝まんというその間が素晴らしい愈々成り行きを大事にしながら。もう家族中の者は言わば睦まじうもう言葉使いから教えておられます。
そういう生きられ方をなさって、天地の親神様の心に愈々大きく交流されるものがあって。言わば教祖の生きられ方というものがあるわけです。そして表行よりは心行をせよと言う様な教えがまあ生まれて来ているわけです。しかもそれはです、御理解百節にあります様に、芽出度芽出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁るというではないか。生神金光大神は家繁昌子孫繁昌の道を教えるのじじゃと教えておられるのです。ところがその教えておられること自体が。
例えばこの教典なら教典にまあ含まれておるのですけれども。それをどういう風に頂いたら、教祖金光大神が頂かれた事を実証する事が出来るかと、言う事を説いておるものがなかった訳です。過去百年の金光教の中でそれをなら合楽では合楽理念この生き方さえして行けば、しかも容易う楽しうしかも愉快に出来る、しかも絶対人間の幸福の条件が足らうて来る幸福になれる道であり。子にも孫にも伝わって行く程しの信心であると言うならば僅かばかりの合楽理念の生粋、と言う所は本当に少しばかりの事である。
だからどうでもその合楽理念をやはり実生活の上に商売をするなら。合楽理念を以てする外はない、百姓をするなら合楽理念を以てする外はないと、確信が出来るところまで自分のものにして行かなければならない。しかも言うなれば絶対という私は言葉を使いながら、皆さんに聞いて頂いているからそれを行じて行かなければ。私の言う事も嘘になるわけ、金光大神の言われる事も言うなら反古になってしまうのです。
昨日一昨日二十日が吉井地区の共励会でした、もう大変おかげを頂いて二十数名の方たちがとにかく、あそこのお座敷一ぱい集まられたと言う事ですが。もう大変参加しておかげを頂いた。中でも秋山かずえさんの発表されたことが大変素晴らしかった。おかげを頂いたというて数人もそのお礼のお届けがあった。それは有り難い信心でいう有り難いという心と信心の喜びとは、別ものだと云う話をされたそうです。これは合楽哲学ですねというてそのことをお届けされた。
唯有り難い有り難いというなら、何か物を貰えば有り難いと思うけれども、信心の喜びとはそんなもんではない、貰はうが貰うまいがいや反対の事にならうが喜ばれるのですからという話がね。素晴らしかったというておられます。そういうお届けがありましたが、確かにその信心の喜びと言うものがです。合楽理念を以てするとです、もう自づと湧いて来る様に頂けるのです。どんな場合であってもです。言うならばどんな事であっても御神願有り難うございます。という心が生まれて来る様に説いてあるのです。
これも昨日ですが一昨日高芝さん所の、同業の方達の総会か何かが別府でございました。高芝さん行き掛けにどうぞ沢山の同業者が集まりますから。どうぞ中で合楽示現活動が出来る様なお繰り合わせをお願いしとられました。それで昨日帰って見えての報告でもう本当に恐れ入ります。旅館で一部屋に四名その四名の中で、親先生が北京で酒屋をしよんなさった時の酒屋友達の人が一人見えとった。一人は佐田さんのお導きで参っておられた池内さんのご主人が見えとった。
それがもう大坪さんは昔からこうして知っとると言う事からです。もう今の合楽はもうそれこそもう素晴らしい示現活動が出来て、どうでんこうでん私も合楽に連れて行って呉れんのと言う所までなった。そして合楽理念を語ると言う小冊子を持っておられたがそれを汽車の中で読んで行くから貸さんのというて、熱心にそれを読まれたという話をしとられました。そこにはもう人間心も何もない純粋な心で願わせて頂く時に、そういうおかげが受けられる。私は昨夜こんどのまあここに合楽ビルというか。
その合楽会館というかまあ名称は何でも良いが。どうでも私は言うならまあ学校の様なものいうなら塾の様なもの。こんども例えば十名以上あるんです。今度学院に行こうか行くまいか、行きたいけれども行くまえにいろな事情があってまだ分かりませんから。と云う位に若い方たちが一生懸命本気で、信心の稽古をさして貰う方たちがあるのです。だから例えばチラシならチラシを出して、本当の人間の幸福を求める人に対してです。まあ絶対これなら間違いない。
しかも誰でも行じれる行はれる道を合楽では説くのだ、それを高校を卒業したり大学を卒業したり、また嫁入らんならん仕事に就かんならん。それが三月半年遅れても問題ぢやない。本当の幸福と言う事は、こういう行き方にならねば人間の幸福はあり得ないんだと。確信を以て説くところが合楽に出来た。だからこれは信者以外の人達でもです幸福になりたい、幸福になりたいと全部の人がおもうておるけれども、なら本当になら人間の幸福とは、どう言う事かと求める人は極く少ない。
なら極く少ないけれども世の中にはそういう奇特な人があるのですから。そういうチラシを見てです、人間の幸福とはと言う事をです。確信を以て説くところがもしあるとするならば、信心が無かってもそういう人たちも集まって来る人もあるだらう。またそれが願いである信者の子弟はいうに及ばぬ嫁にやる前の半年間、言うなら就職させる前の三月なら三月間をです。
初等科高等科と言った様に、そして合楽理念を本当にマスタ一し、所謂信心修行の真似事をさして貰うて、幸福の基礎と云うものはこれに依らなければならぬ。これに依れば人間が必ず幸福になることの、確信出来るところまで勉強すればね、これから先は本人たちの信心に依ることだ、これを持て社会に出れば絶対だと言えれるものを言うならば。マスタ一すると言った様な意味でもです。
そういう御用にも使うて貰いたい、そこで名称を合学園とするか合楽塾とするか、まあ西岡先生なんかは合楽義塾なんかにしたらどうじぢゃろうか。まるきり吉田松陰が座らにやん様な感じですが。けどようといろいろ考えよったら会楽塾でもよかろうかと思うのです。十人でも二十人でもよいそういう人間の幸福になるための絶対の一つの原理と言った様なもの。しかもそれが今からでもいわばそのことに取り組まれること。
しかも容易う気安うその気になれば誰でも行じられる手立てというか、手掛かりが合楽理念に説いてある。ここんところの勉強をこれはまた皆さんの場合でも、これを基にしなければ駄目なんです。お取り次ぎを頂いてお伺いをしておかげを頂くことが、もうその時ぎりです。秋山さんに言うなら信心ちゃ有り難かのうやとは、そんなおかげを頂いた時が有り難いのである。信心の喜びというものは合楽理念を以てしなければ、信心の本当の喜びと言うものは頂けんのだ。
そんなことをお話して寝ませて頂きましたら、うそういう夢の様なですけどそう言う事がもうしきりに寝ながら考えさせて頂いとったら。ご心眼に寝ながら頂くのにね。御田と言う事を頂く、御の字と田圃の田そして次にすぐそれに田の上に草冠をこうやって頂いた。どげんなりますか御苗と言う事になりますでしょう。ですから信心のいうならおかげの受けものというけど。これはやっぱり受けものだけではいかんです。
御受けものでなければそうでしょう、おかげを頂くとですけん、御受けものでなければいけんでしょうもん。肥えたご持って来たりなに持って来たりではいかんですもん、やっぱり清らかな御受けものを作らねばなりません。田と云うのは受ける場田圃の田というものは奇麗に耕されたり。言うなら肥料を施されたり、そしたらそこに苗を蒔けば種を撒けば芽が出る、苗をすれば苗が出るわけなんです、だからおかげの所謂御受けものの事を御田と頂いたことだと思うです。
だから御田をまず作らねばなりません。そこにはなら学校をまず作らねばいけないです。そこに神様がです神様が目をつけられた人達がそのまま御苗として集まって来るでしよう。神様にそうしたいうならばご計画があると言う事、だから私共がまず御田をいただかなければならない。御受けものを頂く事に精進しなければいけない。そこに神様が御苗は必ず下さる。
人間のいうなら考えとか、言うならば浅はかな知識というものは全然役に立たない。唯私共が御田を作ることのために愈々言うならば自分の持っている学識とか知恵と云うものを一遍かなぐりすて。本当にいうならば無条件にお任せ出来る心の状態をつくって行くと言う事が先決。そこから言うならば天衣無縫的なおかげを自分で実証して行くことが出来る。それを段々広く深く頂いてゆく、この方は無学でも人が助かっている、と言う事は自分が身につけられた学問と言う事はふり回しておられない。
神様の前にはもうそれこそ神様の仰せ通りに仕えますという行き方、ご述懐の中にあります様に、どうしてこんなに有り難い道が開けて来たであろうかと、感泣しておられたところがございましたね。その覚えを書きながら途中で筆をおいて、そしたら神様がどうおっしゃられるかと云うと、金光大神その方が有り難いのではない、天地金乃神が有り難いのだと言う様なお言葉を返しておられます。難いというものではない、信心の云うならばその喜び、その喜びはそのままあなたの喜びでは無くて。
神様の御喜び。皆さんが一寸したまあ素晴らしい事に、気づいたりすると感動がわいて参りますでしょう。あれはそのまま神様の感動だと、私がまだ十かその位のときに真の信心真の信者を一人つくって下さいと言う話を横で聞いて、その真の人に私がならうと思うた途端に感動が湧いて来た、もうおかしいぐらいに涙がこぼれて来た、横のミカン畑に入って泣いたことがありますけ、これは大坪総一郎の涙ではない。言うならば天地金乃神様が感動される。だから信心の喜びと云うものはね。
もうそんなものそこには私情とか、学識とかは全然関わりがない、いやそれがあったらそう言う神様と直結する働きにはなって来ない。如何に芽出度芽出度の若松様よ。家繁昌子孫繁昌の道を教えると仰せられるが、それを実証して行けれると言う事が極く稀であった。また無かったそれを合楽では私が実証しながら皆さんに聞いて頂いた。しかも合楽で説くところが決して本当に人間が幸福になりたいと本気で願うならば、会楽の信心のお話を真から頂き、真からそれを行ずることは一つも難かしい事ではない。
唯お願いをしておかげを頂かんならんと言う事であったら、それでおかげは頂きましようけれども、それだけでは神様教祖様がおっしゃっておられる。家繁昌子孫繁昌の道にはつながらない。何とあっても皆さんが合楽塾に通っとるつもりで、そのことだけを専攻してそのことだけを自分のものにして、外の学問やらはかなぐり捨ててそういう行き方を以てして。初めて商売は合楽理念を以てする外はない、百姓は合楽理念を以てする外はないことになります。
お取り次ぎを頂いてそれがいうなら純粋な心で神様が喜んで下さる様なことをねがえば、高芝さんじゃないけれども、たった四人しか入らない部屋に三人が私を知ってあった人であった。しかも北京時代の私の酒屋友達であったと言う様な事、そういう中からなら秋山さんが言われる、信心の喜びというものが頂けるのじゃないかと思うです。決してここでは勉強してはならん学問があることは。
かえって信心の邪魔になるという風に聞こえますけど、それは確かに信心をふり回したり少しばかりの知識を神様はああいいなさるけども、親先生はああいいなさるけど。これはこれが本当と言った様な事ではいけないと言う事である。だからお願いしたが最後お取り次ぎを頂いたが最後もう親先生一辺倒にならなければならないと言う事、自分の考えというものやら知識とやらはかなぐり捨てなければ次ぎのよい働きにはなって来ないと言う事。だから結局そういう知識とか観念とかやらは。
もう捨てるという気持ちが必要だと言う事を今日は聞いて頂いた。無学でも人が助かる教祖様が無学であったとは思われませんが。事神様の前には無学同様それこそ馬鹿の様に神様の仰せ通りに仕えておられると言う事が今日に金光教が残る大きな基を作られたんです。合楽の場合でもそうだ神様から頂くことに、それは私でも少しは勉強しとるから、少しは人間心があるから、神様の仰せにああでもなかろうか、こうでもなかろうかというて右左しとったら今の合楽は生まれていない。もう始めから嘘の様なことを言われても、それをハイハイと受けているところに、今日の合楽があると言う事ですね。
どうぞ。